ぼくは立派なあほでありたいが/すみたに
うのは、我の不在、自我への意志。これはすでにある自我を、異化し消し、繰り返す転成、そして消えゆく境界、境界の不在、境界の獲得。執着するくらいなら異化し手放すべきだ。それが責任ではないか、と学ぶのだ、不幸はそう教えるのだ。ないことは既に不幸であり、しかし悲劇でない。ブロツキイは個人より大きな悲劇がみられるべき時代と言った。それは世界はカタルシスを一旦迎えねばならない程、大風呂敷になっているからだ。大きな悲劇が繰り返されている。あまりに無意味で抽象的な犯罪が、罪悪が行われているのだ。
ところが不幸にはカタルシスなどない。なぜなら不幸は個へとむかう。悲劇は偉大な不幸が誰かに負われることによる解放
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