ぼくは立派なあほでありたいが/すみたに
大な沈黙を思い出す。そしてトルストイがなぜ不幸の多様性を指摘したか。あるいは、多くの文学が悪や不幸をえがいているのか。それは、不幸に向き合ったうえで語り始めなければならないからだ。
だからこそあらゆる美は苦しみと悦楽であるのだ。
創造とは自我獲得への飛翔であり、なお地上へと降り立ってくること。ぼくのあほさ、自我のなさ、個我のなさ、推論のできなさ。これは自我獲得の起点であり、点とは常に無であるということに裏付けられる自己の存在証明がなされる。自我は不幸に触れるものとして存在できる。僕はなぜかスピノザを思い出す。
「我々はつねにただしい、あれをしたこれをしなかったの違いであって、どれも正し
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