ぼくは立派なあほでありたいが/すみたに
える。だからこそ、どの幸福が本質的に幸福だけを齎すのかは解りっこない。特に事後的なものというのは、全くだめでしょう? 演繹主義的に帰結主義を擁護できるのは科学的な話だけなんだ。
ぼくは不幸をなくすんじゃなくて、それを抱え込まなければならないと思っているんだ。結局は、純粋であるべきだと。幸福を追求するのは、つまり、不幸が抱えられた跡であると、そして、抱えること自体が即ち生きる事だと。そして、生きなければ何ら報いなどないんだと、ぼくは当然の結果へと引き返す。しかし、ここでの報いとは、もはや幸福であるといってもいい。不幸は背負われ抱えられているものとなっているのだから。それは純化されていくべきものだか
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