近代的詩性についての備忘/るか
、あったのかも知れない。高校生くらいの頃まではよく文学作品に触れていたのだが、当時の私の認識では、いわば、萩原朔太郎において頂点を示したような近代詩の流れは第二次世界大戦で終焉した、そこで既に詩は不可能になり、何か別の形で詩的なものを追究するしかなくなったのだという結論に達していて、その感慨は現在も変わっていない。その背景には、詩人のある種、存在論的な極北と考えられてきたしその頃自分もそんなふうに史的に位置づけていた、アルチュール・ランボーについての意識が確かに横たわっていたことを付言するならば、あるいはもう少しその頃の自分の思いを分かって頂けるものなのかも知れない。しかし、このランボーがまた難物
[次のページ]
戻る 編 削 Point(0)