タケイ・リエ小論/葉leaf
 
もいない自我とは、身体の相において密かに現れていると言ってもよいだろう。というのも、身体というものは常に意識のくびきから外れて自己同一性や連続性や統一性を失いやすいものであるからだ。我々は身体において、視覚ほど明瞭でまとめあげられた認識を行っているわけではない。近代的自我とは対極にあるような詩的自我を表現しているタケイにおいて、視覚よりも身体感覚が重視されるのは当然のことであった。
 ところで、身体とは他人と共有されうるものでもある。引用部で、詩の主体は、他人になめされたり囓られたりしているが、それは身体というものが、他人の身体と交渉をもち、他人の身体により侵されまた支配されうるものであることに
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