岩尾忍詩集『箱』小論/葉leaf
 
て、つまり中心をもたないものとして、ただ物理的基体のみをみずから分離することも可能なのである。
 左手を野菜の上に載せ、右手で包丁を握り野菜を切る。このとき、右手と左手は統御されていると言える。ところが、料理も食事も終え、炬燵の中に手を入れながらテレビを眺めるとき、右手も左手も統御されていない。それは未明の身体であろう。このように、統御された身体と統御されない身体は、循環しており、また分節化されており、あるパーツ群が統御され互いに連携して一連の意識的行動をとったかと思うと、次の瞬間にはそれらのパーツ群は統御されずに放置され、今度は別のパーツ群が統御され連携していく。岩尾の詩において、「私」が「お
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