岩尾忍詩集『箱』小論/葉leaf
とである。先に作品は身体に似ていると言ったが、身体の外部への流出は、作品全体のレベルと作品内のレベルの両方で起こる。身体は作品として外部に流出すると同時に、作中の駒としても外部に流出する。だから、「私」は「人」「鳥」「籠」にも成り得るのである。つまり、統御されていない身体は、いまだ人称が成立していない以上、それは二人称の方角へと流動し二人称として立ち現れることも可能であるし、三人称の方角へと流動し三人称として立ち現れることも可能なのである。統御されていない身体は、「私」として中心化されていず、「私」として特権化されていないがゆえに、「お前」として中心を外部に分散させたり、「人」「鳥」「籠」として、
[次のページ]
戻る 編 削 Point(7)