田村隆一論??フィクションの危険/葉leaf
である。
ところが、鮎川の言葉にもあるように、それにしても引用部は難解である。果たして田村が本当に実感だけでこの部分を書いたのか、それが怪しいのである。一篇の詩を書くために詩人が何かを殺すということは滅多にないのではないか。いとしいものなど殺さなくても多くの詩人は詩を書いているではないか。だから、引用部は端的に偽である、つまり、現実と対応していないことを語っているように思える。あるいは、田村は、詩をかっこよく書くために、図らずも田村自身とは別の「詩を書く主体」を作り上げてしまっていて、その詩を書く主体が書いた詩行だから実感とは離れた虚構的な詩行が生れているのではないか。修辞的に、誇大にものごと
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