田村隆一論??フィクションの危険/葉leaf
語りを前にして、読者はごっこ遊びを厳密に行うことができない。だが、ごっこ遊びが厳密にできないような不明確な思想だからこそ、作者と非現実の語り手が分離し、そもそもごっこ遊びが成立していたのだ。だから、上述したような解釈によって、田村の思想の意味が明確に定まれば、田村の詩はまさに田村の言葉でしかないと考えることも可能であり、そこに非現実の語り手など生じず、ごっこ遊び的なフィクションは成立しない余地がある。つまり、田村の詩はまず田村自身の言葉であるが、その思想が修辞的であるがゆえに意味が不明確となり、田村から遊離するが、適切な解釈でその意味を決定することで再び田村自身の言葉となりうる。
2.詩の信
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