ヌーヴェル・ヴァーグという美学 ; 批評“そのもの”として/葉月二兎
にかりたてられ、つかぬ間のひとときを一緒になって軽快なタップ/ダンスを踊るのである。
そしてそのフレーム外に声が介入する。かつてロラン・バルトはそのフィルム分析において“第三の意味”を提唱したが、彼はその声がフレームの余白にあるがためにその声を聞き落としていたのだろう(彼はあまりにも映像表現の持つ視覚性・記号性に固執しすぎていた)。吉田喜重はヌーヴェル・ヴァーグについてのあるインタビューの中で、映画表現の持つイデオロギー性とロラン・バルトの“第三の意味”を関連付けて語っているが、このイデオロギー――〔作品:作者:読者〕/三位一体;Trinityとなった“神聖(にして冒されることのない)”イ
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