Forgiven white blood/しろう
 
、私のskillで、私のactで、
私はsinを、私はkarmaを、積み上げてきた。
1914年以降、終末を迎える現代において、神はmiracleを起こすことはない。
その時私は『業』の文字と同様に串刺しにされ、無理矢理立たされたままの骸となることだろう。


私が斃(たお)れたのが十字路で良かった。
たとえ、旧きカトリックにおいて自殺者が戒めとして埋められたという十字路だったとしても。
なにゆえ良かったのかといえば、いずれにせよ、私がここに埋められることはないだろうということと、キリストと同じく十字を背負えたということ。
それとなにより、ここは遮るものが何も無く、広い空を
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