荒地にて1.5/徐 悠史郎
 
は基本的に嫌いで、彼の詩の大概は偽善の産物と思っているが、私が谷川の仕事に偽善を感じる理由の根が、この数行に端的に現れている。ここには生活者の浅薄な疎外感ではなく、かろうじて地球と社会契約を結ばない限り生存すらおぼつかない<……人>の悲哀が現れている。おそらく彼の命の重みは、他の人が地球一個分なのに対して、二個分だろう。そしてそのような二個分の独我は彼が詩に踏み込むことによって<地球>と<反地球>に対象化され、結果、彼の命の重みはアインシュタイン理論(古いが)によって一条の光芒となり、重量としてはゼロを刻むことになる。
「私」がふいに出現したときのこの「芝生」を、荒地と言ってもいい。

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