現代詩を書いたわけと書かなくなったわけ/KETIPA
 
かったのかもしれない。そうなってしまってからは、詩を(あるいは詩以前のものを)書かなくなった。時々言葉の羅列で気を紛らすことはあったものの、それはもはや詩ではなかった。


よく考えれば、一読者として現代詩を読む時も、それを一つの詩ではなく、「現代詩」として扱っていたような気がする。ひどい時には(というより恒常的に)、ざっと「現代詩」を眺めて、面白い言葉の配列に脊髄反射的に反応していたように思う。詩を味わう素質(ないし余裕)が欠落していたか、あるいはそれが自分なりの詩の読み方だったか、どちらにしても徐々に詩を読むことからも離れていった。



現代詩を書かなくなって、書けなくなって、
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