荒地にて/徐 悠史郎
 
」と呼んでいる。
 もちろん私は、北川のいう「修辞的共同性」一般が、例えば詩人会議の論客たちが拘束されている「綱領や規約」と同じようなものだなどとは、口が裂けても言わない。荒地派がその成り立ちから不可避的に獲得してしまったあれら「修辞的共同性」と、なにか党派の<中央>あたりから回覧されてくるような性質の「運動方針」とでは、その出自は、全く、根本的に違うものである。見た目ちょっと似てるような感じはするだろうが、この区別については、いま、強調しておきたい。なによりも「荒地」同人たちは、<時代のなかで、自分の言葉で書くこと>のために、苦闘してきたのである。
 ともあれ、私が上記引用の二片から言ってお
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