毬藻/黒田康之
 
がいるとすると、この街には少なくとも百万の時間や世界、言い換えれば自分というものが存在する。なぜならばそれだけの数の主体が存在するからだ。なら自分の世界が一つかといえばそうではない。自分自身だって、少なくとも自覚できる性質の差はこれも無数にある。それを類型に分類すれば語ることのできる性質になる。では語ることの出来ない部分はどうか。それは私には自覚できないが反映されている。こうして考えると私は無数に存在する。しかも実際に時間は自覚の上では直線的だが、存在とすれば螺旋形で、時間が螺旋に進行するということは、実際には進行も遡行あるということになる。また螺旋を縦に見れば、同時にいくつもの現実が存在する。そ
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