暴力と責任、若しくは<善悪の彼岸>−「存在の彼方へ」を読んでみる11/もぐもぐ
 


これは、暴力を全ての善悪の根拠におくもので野蛮だ、と見ることもできないわけではない。だが、理性(<語られたこと>)による善悪判断は相対的であり、また人がそれに従うも背くも事実上自由に行うことが可能であるのに対して、レヴィナスが描写するような根源的な「威力」により設立された「責任」は、どんな意思によっても破棄不可能である。勿論ためらいながら、怯えながら、その圧倒的な威力に対する「責任」を果たさないこともできるだろう。だがその際でも、「責任の忌避に先立つ逡巡、あるいは逆に、責任を忌避したあとで生じる悔恨」(p30)の内に、「責任を回避することの不可能性」(p30)が反映されている。



[次のページ]
戻る   Point(1)