暴力と責任、若しくは<善悪の彼岸>−「存在の彼方へ」を読んでみる11/もぐもぐ
威力が、不意に、私を打つ。打たれた私は、合理的な思考を巡らす前に、既にその相手に従ってしまっているのだ。
レヴィナスはそれを<善>と呼ぶ。これは通常の意味で、所謂善悪判断の対象となる、そうしたレベル(<語られたこと>、言葉のレベル)の「善」ではない。それ以前的な、善悪の発生源、責任の発生源(言葉でなく現実の行為を規律するもの)としての<善>である。レヴィナスの言う<善>は、その定義上、全ての「内容」を免れている。「自ずと服従せざるを得ない」「気づいた時には自ら服従してしまっていた」、そうした構造が、全ての善悪道徳の終局的な根拠である。「無起源的な筋立て」、とどこかでレヴィナスは書いていた。
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