場所を持たない私「自身」−「存在の彼方へ」を読んでみる10/もぐもぐ
 
して用い、「暑さ」をしのぐためにクーラーや扇風機を「道具」として用いる。)
究極的に言えば、私が私の生を失うことは、私の生にとって「無意味」である(「私の死は無意味である」(p21))。「私の生」を目的とする道具的世界においては、「私の生」自身は他の何らの「道具」にも「なりえない」のである。
したがって、「私の生」(=「私自身」)は、道具的世界内に、「場所を持たない」。

やや粗雑かもしれないが、レヴィナスが「私自身」を「場所を持たない」ものとして把握しているのは、このような意味合いで一応首肯できるものであろう。


結局、「私自身」(「身体=感覚(五感)」)は、突き詰めて考えると、
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