場所を持たない私「自身」−「存在の彼方へ」を読んでみる10/もぐもぐ
 
レヴィナスが挙げている「私自身」にほぼ等しいと考えられる。
厳密に考えれば「身体=感覚(五感)」としての私自身と、「私の生」は、ずれているかもしれない。だが「私自身」を、「身体=感覚(五感)の『総体』」と考えれば、それはイコール「私の生」である。例えば、全ての感覚を奪われた私は、ただの肉の塊であり、「私自身」としては死んでしまっている。
「私の生」それ自体は道具的世界の中に位置付けることができない。「色」や「形」、音、匂い、味、手触り、痛み、温度、等々は、そのために各種の「道具」が動員される「目的」であって、それ自体は道具ではない。(例えば、「味」をつけるために各種の「調味料」を「道具」として
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