自由意志と責任−「存在の彼方へ」を読んでみる7/もぐもぐ
ブラックボックスは「自己認識」をされている。その限りで、哲学は「心」を放棄する必要はない。
ではこの「自己認識」とはどのようなものなのか。
フッサールはそれを「超越論的主観」と考えた。身体とは離れて、半ば抽象的にこの「自己認識」だけを取り扱うのである。(これは数学等の思弁的諸学門の基礎付けとして、十分に機能しうるものであった。)
だがそれでは物足りなくも感じられる。身体と心を、統合的に説明できる理論があればそれに越したことはない。
ハイデガーはここで、「自己認識」を、存在(生)の意味の問題と捉える。これは何かというと、「自己認識」を、自己の生存への配慮と捉えるわけである。これは、「ブラック
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