「感性の論理」はどこからくるのか---詩の非論理的な領域を読むということ、詩の非論理的な領域を書くと.../N.K.
ことがまさに牧師暮鳥の望む姿であり、それは「指し示す」暮鳥その人の姿とさえ言える。牧師といえども、否、牧師だからこそ、指し示す神の国は「『ここにある』『あそこにある』といえるものでもない。」15 のだからこそただ「空は澄」んでおり、指が直接さすものとはならず、澄んでいるとはリアリティに満ちていることに他ならないのである。「みちが尽き」たのはそこから更に先の大洋、キリスト教儀のもっと奥のことは知るよすがもないからでは、断じてなく、自己がキリストになろうとするのではなく、「指し示す」に至ったからである。だからこそ「心は満たされるものがあ」る。
もう一度「岬」を引いて以上をまとめ言葉の粒々を捉えなお
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