批評祭参加作品■余白について考える試み/岡部淳太郎
 
偶数ページから始まっている。それはひとつの慣習でもあろうが、同時にページをめくるという動作が一種の頭の切り替えにもなっているため、ひとつの詩を読み終って次の詩に進む時にいったんリセットされる、つまり次の詩を読み進むための準備作業が出来るということでもあるのだろう。
 次にこの詩集から離れて、詩全般における余白というものを考えてみたい。詩に余白が現れるにはどんな場合が考えられるだろうか。まずタイトルと本文の間の余白があり、連と連の間の余白があり、同じ行の中にあっても文字と文字の間に余白が現れることがある。また、先述のように行の長さに応じてページの下に余白が現れるし、特に現代詩においては他の連よりも
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