詩人たちに継ぐ/熊髭b
 
を語る言葉が氾濫するそばから、忘却されるために言葉は忘却されていく。器のない入れ物(というのもおかしな言い方だが)から、ただただ水が流れている。この場合、水が言葉だとすれば、器とはいったい何なのか。私が思う安心の問題は、この問いに集約されているのかもしれない。


届けられるべきは、不特定多数ではない。特定のだれそれである。特定少数である。そして、表現と日々の暮らしが、乖離していては心もとない。表現の場として、自分自身を不特定にすることは、不安だ。言葉が不安を帯びている。その不安を緩やかに共有することで、私たちは自分自身を確かめている。皮肉なことにも。


安心とは明確な事を指すのでは
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