詩集に纏わるエピソード (3)/深水遊脚
 
う見方
だった。そういう行為をしているとしだいに
題名が分かるという割合が多くなり自分でも
驚くほどだった。
しかし別の考えも浮かんできた。言葉を超越
したところにある絵画がなぜ言葉である題名
を持たなければならないかということである。
もしかしたらわたしの敗北はその潔癖さから
始まったのかもしれない。けれどもなぜ現在
わたしは言葉と共に生きているのか。生きら
れているのか。

(引用終わり)


斉藤圭子氏の『蒼茫』には、詩作のまえに取り組んでいた絵画について、自伝的なエピソードを語る詩がいくつかある。結局は続かなかったものの、取り組んでいたときの、懸命に何かを吸収
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