批評という暴力的愛情表現/佐々宝砂
です。ごめんなさい)。
複数の作者の複数の作品をあたかも一連の流れのなかにあるもののように論じるという行為は、作者の考えを酌み取るためのものではなく、極端に言えば評論の執筆者である私自身の考えを発表するためのものである。プロである作家たちを読者対象にしてはいないし、少女小説という特殊な分野の読者を対象に書かれたものでもない。「后の位も何にかはせむ」は、少女小説を全く読みそうにないオッサンたちが読者対象なのだ。より正しく言えば、静岡県文学祭評論部門の選者であるオッサンたちである。彼等に「おめーらこんな世界のこと知らねえだろ」と啖呵を切ることを目的に書かれたといってもさしつかえない。しかしそれで
[次のページ]
戻る 編 削 Point(22)