ヒューム「ベルグソンの芸術論」(3)/藤原 実
 
く表面の背後を補足し透視してみれば、このときわれわれは、ひたすらおのれ自身にのみ関わり、おのれ自身のみを求めて、ありようは底なしの、家具もなにもない、われわれを呑み込む空無を見出すのである』

『無意味の只中でわれわれは意味の喪失にとり囲まれているが、かくて一切はつぎのような体験に逢着するのである。すなわち、われわれはひとつの遊戯であるということ、そのルールに習熟しなくてはならぬひとつの途方もない遊戯であるということである。おそらくこの遊戯のルールはつぎの如きものであろう。一切が蒸発してしまうまで、水をバケツからバケツへと汲みかえつづけること』。

かくて「私」とは、無底の鏡をのぞく無限反
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