「逃走」と「闘争」という語呂遊びを使おうと思って使えなかったひと/んなこたーない
は、よしんば100歩譲って彼らが本当に暴力を放棄しえたとして、
それは別の誰かに暴力の行使を肩代わりしてもらっているだけにすぎない、ということに気づかない、
あるいは気づいても平気で知らん顔できるそのナイーブさに原因の一端があります。
ドグマが現実逃避の隠れ蓑であってもなんら驚くにあたらない。
アプリオリな論理が通用するのは個人の行為の領域だけであって、
多数の人間の相互関係に入るとき、同時にぼくらは経験的領域に入らざるをえないのです。
そもそも有能であるなら、逃げる必要がないわけです。
「逃走」には必死さが似合うのであって、明らかに自分より格下のものにたいして、
「相手にしな
[次のページ]
戻る 編 削 Point(4)