[141]中川達矢[2013 02/26 00:32]
を語りうる「私」である、といった論旨だったように思えます。
(一部、僕による勝手な改ざんがあるかもしれません…)
そして、そこに付け加えるならば、「私」が「私」たりうるのは、その経験を語るからこそであり、つまり、たとえば、「死」はその人のものであり、他者の「死」を私が死ぬことはできないように、他者の経験も私が経験することはできないのです。
ただ、「死」は経験として、語りうることができないのに比べ、過去の体験は経験として語ることができる。
無論、「あの人は昔、こうで、ああで」と他者の経験を語りうることはできるかもしれないですが、それは、「私」が見た他者の経験に過ぎず、観測点としての「私」、そして、語る者としての「私」からは逸脱できないように思えます。


少し、思いつきで書いてみました。
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