[545]ハァモニィベル[2025 06/03 20:30]☆
私は、何かを議論したり主張し合う場合、下記の(1)はよいが、(2)と(3)は否定したい
と考える。以下はその理由である。
よくみる議論の様相には3タイプあるようで、
(1)ある意見についてYES/NOの立場に別れて論証し合うディベート型
(2)信念や信条(心情?)をひたすら互いにブツケ合うだけの口相撲型
(3)勘違いの斧を振りかざして互いに狂乱し合う殺伐型
こんな感じなのだが、
まず(1)のディベート型は、極めて妥当な議論の方法なのでよいと思う。
これは便宜的に、敢えて反対の立場から相手の主張を検討するだけであり、そこで感情的になった方は必然的に論理による説得を放棄した以上、即負けである。議論する脳がありませんね、というわけだ。といっても、ディベートは勝ち負けに主眼があるわけではなく、極端な立場から論証し合い検討し合うことで、議論を聞いている第三者に、中間に潜む妥当な真実が明確になってくる所に価値がある。なので(1)はよいと思う。
では次の(2)口相撲型がなぜダメなのか。それは以上からも察せられるように、何ら論証することなく、ただただ、ひたすら、主観(感情)をぶつけ合ってるだけだから、である。日本人の議論はほとんどこれであるが、Aさんが黄色が好きで、Bさんが青が好きだ、として好きにすればいいだけのことである。なぜ議論の射程範囲を絞らないのだろうか。例えば、それが道路交通上の信号機の話だとしたら、青好きは論証なく納得されやすい反面、黄色が好きだという人には<なぜですか?>と尋ねなければならない。訊けばかなり独特な理由が聞ける筈だ。その理由や理屈に説得力があれば、黄信号好きが増えることは無くても、その立場は理解してもらえるであろう。ただ、根拠を述べる中にも主張(認識)が含まれるので、厄介な人はそれに対して口相撲から口相撲へと延々と日本的な朝まで生ギロンをして論証を感情的に妨害する。それが議論だと錯覚しているフシさえもあるから、困りものである。
最後に(3)の殺伐型はなぜダメなのか。
それは、松の廊下で吉良に斬りつける浅野内匠頭だから、である。まあ、勧善懲悪が明白であれば、正義が悪を討つのは良いことに違いないが、もし、認識に誤りがあったとしたらどうだろう?。本当に自分は正義なのか?相手は冤罪ではないのか?斧を振り下ろす程の悪なのか?そうした事を冷静に検討するためにディベート型の厳しく冷静な議論が在るべきなのである。的確な判断力のある第三者に、事情を提示したとき説得できるだけの認識データを、言葉にすべきなのであって、言葉を感情の斧として振り下ろすのは短慮である。自分の認識に錯覚が無いか、自身の脳内で厳しくディベートした後でなら、斧は不要であり、相手の反論にもいくらでも応えられる筈である。まあ「斧」と言うのが過激なら、泥でもいい。泥のぶつけ合いは互いが醜くなるだけである。
以上の理由で、上記(2)(3)を、私は否定したいと思う。
前
次
戻る
編
削