作者からのコメント
作品拝読しました。
たぶんこの作品の問題点は、「君」という言葉が抽象的に使われているか、「僕」を指しているにすぎないかのいずれかだと思います。具体的に、実際に存在する他人を頭に思い浮かべて「君」という言葉を使うと、また違ってくるかなあ、という感じです。
例えば僕は、亡くなった友人に対して挽詩を書きましたが、
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=247078
これなんかは実在する「あなた」への呼びかけなので、決して「僕」には回収できない、というか、「僕」が「あなた」に振り回され続けて呻吟している様子がよく分かると思います。
---2012/10/18 16:32追記---

>fake pneumaさん

初めに断わっておきますが、延々と議論するつもりはないです。僕はネットの議論に基本的に生産性を感じません。特に煽りなどの感情的な議論が嫌いです。

詩が他者や社会と渡り合う、というのは、他者や社会からの自己への働きかけに適切に応答する、とでもいいましょうか。あるいは、他者や社会の在り方を十分に理解し、それらを自らの中にまで引用する、または、既に自らの中に含まれてしまっている他者や社会をよく見据えること。それを一番感じる詩集は瀬尾育生の『アンユナイテッド・ネイションズ』ですかね。これは20世紀と21世紀の間に書かれたものですが。特定の時代に起こったものだとも思えませんね。例えば吉野弘の左翼的な詩は社会を扱っているというより、社会によって被害した私を扱っているように僕には思えます。
詩にとってそういうことが問題になるのは、詩が人間の実存を問題にするからです。人間の実存の次元にまで他者や社会が入ってくる、そうなったら詩はそれらを扱わざるを得ないでしょう。
すべて私の世界で起こっている、かどうかは哲学的な立場の問題ですので、そこを争っても不毛でしょう。
私が特権的であるかどうか、というのも些末なロジックの問題だと思われます。はっきり言ってなんとでも言える。
思想は散文で表現すべき、と言い切れるかどうか、これも立場の違いでしょう。詩で思想を書いてみると、詩の方が漠然としているけれどより微妙な思想が書けることに気付くかもしれませんよ。まあそれを思想と呼んでいいのかどうかは別問題ですが。
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