作者からのコメント
つ ぐ み 。様 : お目に留めていただきありがとうございました。
新貝 常様 : お言葉も下さりありがとうございました。いや、内容が鮮烈だったので起承転結ぐらいはね。固有名詞とかは手近な紙にメモした記憶があります。
殿上 童様様 : お目に留めていただきありがとうございました。
beebee様様 : お目に留めていただきありがとうございました。
恋月 ぴの様 : お目に留めていただきありがとうございました。
都志雄様 : お目に留めていただきありがとうございました。 
孤蓬様 : お言葉を下さりありがとうございました。レヴィ…ユダヤ系?とググってみますと、ごく最近まで存命だったのですね。不勉強なものでお恥ずかしい限りです。
あの時代を経た人なら、尚さら肌身でも感じた真理でしょうね。とか何とか、姓の響きだけで「ナニナニ系」などと知ったように弁別したがる私の癖も、時勢次第でいつでも
民族浄化のとば口になるわけで。

茶番を経て絞首に処されたフセインの時と違い、カダフィの最期はニホンザルやチンパンジーのボス交代劇そのものでした。彼もヒトラーからアミン、ポル・ポト、ピノチェトや
マルコス、チャウシスク同様、時代と国民の要請に乗って玉座に駆け上がった国家元首であり、時勢の推移と群れの要請に求心力を失い廃せられた老ボスです。
ツチ族フツ族や旧ユーゴスラビアが示す通り、攻撃の矛先が必ずしも「ボス」である必要はないですが、独裁者の場合は、統率力の衰えを示す小さなスキが反勢力の増長を許す
きっかけとなるサル同様、デモなどが組織される遥か以前に権力崩壊が始まるのでしょうね。

そして、事後の歓呼、有頂天の様は何やら「ビールかけ」を彷彿させもしました。話が逸れますが、スポーツ競技が観衆の攻撃本能を代償的に満たす為に存在する代理戦争で
ある事は言わずと知れています。
おサルの場合、クーデターそっくりな追い落としが殺意を含むかは知る由もありませんが、深手で死ぬ事はあると聞きます。又、敗者が恭順と阿諛追従で下位残留を許される
か否かは、新ボスの意向や群れの総意にもよるでしょう。そう考えた場合、逆に人間の殺戮行為は、他の哺乳動物同様に内在するであろう共食い抑止の本能を「外す」恣意で
機動するのではないかという推論も成り立つわけです。それは明確な意識、論理しかない。おっしゃる「勧善懲悪」がそれですよね。ユナ・ボマーや先般のノルウェー男が醸成
した理論(物語)も正にそれです。
後発のテレビニュースで、あの映像には「殺すな!」という民兵の声も混じっていたと知りましたが、かつての支配者を今、劣位に置くという達成感、優越感の只中で、
「進歩」と言わないまでも、せめてああいう復讐心の高揚から発露に至る恣意的衝動を暫時食い止める頸木、相克的な抑制がかくも無効なのかと失望するわけです。ですから、
こうした「論理」のステージでは宗教も現代思想も教育水準も、理知は何ら抑止力を発揮しないという観点ではあります。
ただ、それでも大きなリスクを冒して座視から一歩出る個人や集団も、僅少ながら必ず出るのです。政治とは全く関係のない所で、僅少ながらその試みが効を奏す時もある。
これも一方で働く理知の力です。希望とは呼べないほどの弱い力ではありますが、この現実はあるし、動機として放棄される事はないでしょう。この、余りにも比重の違う
両者の相克が人類には常にあります。それは一体何なのだというのが人類学の主題だと思うのですが。で、この辺がまだ諦観とまで至らない私個人のニヒリズムというところで
しょうか。


---2011/10/27 00:44追記---
ご丁寧にお返事を下さりありがとうございました。なるほど、「行動原理」自体は変わりようがありませんものね。
「共食い」に関して、哺乳動物の子殺しについては、己が種を残す為に雌の発情を起こす必要があるからですよね。様式的には示威でもある。ライオンのは以前、母子3頭をつ
け狙う若い雄をテレビで観た事があります。察知した母親は幼獣を遠隔のブッシュに隠しますが、不成功に終わりました。人間の場合は通年発情しているのに、雄雌が共犯関係
を結ぶ事例が多いですね。育児放棄や子捨て、DVを含めれば、虐待の発現率は弁別できない程なのかも知れません。ただ、恋愛感情の余禄が連れ子に分与されて共存が維持
されるケースと、雄雌間に亀裂が生じた結果守られるケースがスタンダードの位置を占めます。

殺人が及ぼす影響については、人間は記銘の保存期間が長いため後々プライド内外での報復を招来する恐れを孕みます。だから支配側の不安、被支配側の情緒を鎮静化する為
に、言語で自己正当化と集団の意識統一を行なって来ました。これは死体に対しても言え、快楽殺人者の佐川君も酒鬼薔薇君も、食人族と全く同じ観念操作を用いて死者人格
の吸収を図っています。
殊に食人は、栄養摂取の外郭に呪術性を帯びるのかも知れません。飢饉については不勉強なので置きますが、先の大戦下、南方戦線での敗走日本兵の食人については、対象が
異民族の場合、ナチスドイツや731部隊と同様の「人間以下」といった定義づけもあったでしょうし、生理的要請の為に後づけの倫理観を外すという方向では、アンデス山脈でチャ
ーター機が墜落し遺体損壊と摂取の必要に迫られた遭難者も、「神の思召し」に委ねる事で初期の嫌悪と罪悪感を払拭しています。

こうした「後ろ暗さ」「気の咎め」がいつの時点で派生したかは不明ですが、自己保存の為に本来備わっている「不安」「恐れ」に直結する気分である事は確かかと思います。
ネアンデルタール人が頭を割り合う一方で埋葬の際に供花していた痕跡は、理念による感情的負担の軽減を、人類がかなり古くから図っていた事を示唆します。新人類のシャー
マニズムから始まる宗教がやはり「因果応報」「勧善懲悪」の物語を主軸としているのを見ても分かる通り、人間は万象に理路を付託する事で集団を教化し、世界と人間双方の
囲い込みを行なって来ました。これは多分、必要以上の不可知に生活圏が脅かされない為の、武装と並行した精神操作なのでしょう。現代は権益拡大の道義づけより衝突回避に
よって自己利益の温存に努める傾向にありますが、国際法からワシントン条約まで、あらゆる法律、条約もそうです。
宗教に代わる科学をも含めた、この包括的な法則化・定義づけを専門用語で何と言うのか知りませんが、自然あるままの大気圏下に創ったスノードームみたいな入れ子式世界
観、対人や時事の記録に留まらない主観的時空掌握術とでも言いましょうか。ここに於いて人間は、動物を含め自然界から少なくとも観念上の結界を敷設し得たのだと私は解釈
しています。

人間が有する言語は自ずと拡大し、その伝播と伝承は必然的に人間の想像力や感応性を育成して来ました。「気配を感じる」「空気を読む」といった動物感覚が残る一方、思惑
でそれを捻じ曲げる事も随意です。人間は常に事象や概念の「読み替え」を行なう。「思惟」とも、長じては「思想」とも呼びますが、この工作は個体でも集団でも随時、様々な局面で
働きます。それが動物一般とは異なる習性であり、本能的慣習的衝動の強化・解放と抑制・解体の両方向に作用します。
勿論、申し上げたようにそれは力関係でいともた易く消退又は変性する脆弱な「洗練」に過ぎません。ただ、もうちょっとストッパーとしての機能の方を、科学知識程度に強化
できないものかと思うわけです。このテスティモニーに延々と煩悶するデスティニーを絶滅の時までにどう片付けるか。進歩しないから延々片付かない、というご意見には
賛成せざるを得ません。
---2011/11/04 23:51追記---

戻る
編集