ポイントなしのコメント
[菊西 夕座]
夜の浮遊感あるいは脱力感と、「私」の激しい抵抗運動が釣り合っていないところに、この詩のポイントがあるように感じられるわけですが。 読者であるわたしの幼い頭脳では、昔でいうところの「ガチャガチャ」、いまでいうところの「ガシャポン」や「カプセルトイマシン」をどうしても連想してしまいました。 アスファルトを砕く勢いで激しく駆けておられるようですが、どうも夜から出てこれない様子が、機械のケースにおさまっているカプセルトイと重なってしまいます。だが、だれかがハンドルを回すと、場合によってはカプセルが夜からこぼれおちて、外に出られることもある。 そのハンドルの回されるイメージが、「少しだけゆっくりと回ってくれている」という救いじみた優しさの回転に重なってみえたわけです。 一方で >オレは >夜など駈けない >幸せな未来に賭けるだけさ と嘯く奴のほうは、掛詞によりかかるだけで、動こうとはしない。しょせんカプセルトイは動ける存在ではないので、カプセルの山にうもれているしかないと割り切り、じっとして偶然の回転によって外へ転がり出られる日を夢み、その偶然に「賭けている」という印象を持ちました。あえて掛詞を使うならば、機械が機会を待っているという感じでしょうか。 もちろんこの詩は、ガシャポンの世界を詠っているわけではなく、夜というあらゆる存在を打ち消す力をもった絶対的で強固な存在に対して、私という個性が浮き上がるための抗いを試みることで、ゆるやかな回転というひとつの―夜と私の、無個性と個性の―和解が生じてきた現象をとらえてみせたのだと思いますが、その過程で粉々に砕くという自滅が含まれているところに、存在の不思議さ・複雑さを思わずにはいられませんでした。まるで星が爆発することによって輝くように、宇宙という夜が少しだけぐらりと揺れて回るぐように・・・ ---2025/04/26 10:49追記---
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