ポイントのコメント
[もしゅ]
 秩序と混沌、それは西洋形而上学において、散々語られてきたテーマだと思う。ソシュールがいうように、言語は「混沌」を切り分けあれかこれか、という二項対立的思考を導き出す。切り分けのない世界に切れ目をいれそこに世界とは完全に切り分けられた、対象としてのモノが誕生し、そして自らは、理性をもった一個の個人として、もはや世界から切り離された個人として誕生する。誤解を恐れず乱暴に言ってしまえば、バタイユにおけるエロティシズムはこの切り離された自己の、世界へのノスタルジーであり、それは秩序からの禁忌によっていっそう激しさを増し熱狂をもたらす。そこでは秩序は原点回帰(こういっては元も子もないだろうけれど)への起爆剤になるかもしれない。  ところで言語、この忌まわしきものに対して、秩序の、意味の僕と化してしまった言葉たちに対して、詩を書くといういとなみはどういう意味を持つのだろうか。 言葉の目的性(ハイデガー的な意味での)を機能不全に陥れ、そこに目的にからめとられない新たな言葉たちを見出すことが、ある意味では世界のリアリティを現前させるいとなみとなるのではないだろうか。  そこに私は(あなたは)なぜここに在り、どこから来て、どこに行くのかという永遠の問題に接触する糸口があると思います。  言語とか、文化とか、秩序混沌、結構考えたいこと、いいたいことがいっぱいあったので、思わず返信してしまいました。ごめんなさい、失礼します。
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