ポイントのコメント
[ふるる]
最近、「記号論への招待」池上 嘉彦著を読んで、「記号の「美的機能」から芸術記号論・詩学へ」の中に、同じようなことが書いてありました。 いわく、記号には「伝達機能」と「美的機能」があって、「美的機能」はメッセージの伝達の手段としての機能でなく、メッセージそのものが目的になるような機能であると。(何を伝えるか、よりいかに作るか、の方に重きが置かれる)そしてそれは、新しい意味作用を開示するという営みを生み出すのだそうです。それが言語においてなされるのが「ことば遊び」や「詩」なのだと。 私も、詩を手段でなく目的にしたいとずっと思っていて、 「いかに作るか」がどこを目指すのか、その頂点は、他の人や他の媒体ではなく、自分自身の中にしかないと感じ、一緒にあそこを目指そうよ、というのは違うのだなと思います。 が、詩誌などは、頂点を見せなくとも、社会や若い人達に向けて、ある程度の責任は伴うのかもしれないとも思います。どれがいい詩か悪い詩か、見せていく、というのではなく、何がそうなのか、常に真剣に悩みながらやっているんだという姿勢を見せるという。 気づきを下さってありがとうございます。長々とすみませんでした。
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