ポイントのコメント
[朧月夜]
繰り返される「心の所為」が単純なリフレインになっていますけれど、これはそれぞれが五行歌の終行だと思うとき、交感しあう言葉と言葉の距離というものが見えてきて、つたない例ですけれど三色団子とか、お菓子の詰め合わせみたいな、よくありますでしょう? ピノ・アソートとか。そんな、それぞれの歌と歌とをつなぐ架け橋のようにも見えてくる。「心の所為」という最後のフレーズを導く四行が、豊穣さと言っては単純にすぎますが、あるいは作者にとっては意図的ではないにせよ、自然と技巧・巧みさを求めるものになっている。つたない作者であればここで手を抜いてしまったかと思うのですが、そうはなっていない。名品と言える歌だと思うのですが、そう何度も繰り返せる技巧ではなくて。それもまた、自然な出来、自然に導かれたもの、という感興をもたらす一因になっていると思います。上手いですが、そう何度も試せるものではなく、歌というよりは小説的感慨という感じは少しするかな。中原中也は俳句や短歌は小説の一場面を切り取ったようなもので、詩には及ばないと言っていたと思うのですが。リリーさんには普通の自由詩もあり、これは五行歌への浮気? といった感覚にもなるのですが、名品であるということは疑いなく。わたしは短歌、俳句、五行歌などには詳しくありませんが、この歌はまさしく自由詩的な五行歌ではあるように思います。詩的延長、とでも言ったものがそこにある(時間を変性・持続させる意識のことを言っています)。歌のなかに読み込まれた自然、時間経過の意識、そういったものは早くもこの作者が熟練者である、という感慨を抱かせるのですが、ここからどうなっていくのか、今後も五行歌で遊ぶのか、自由詩のなかにこうした技巧が編み込まれていくのか、といった疑い、期待、とにかく読者を立ち止まらせる洗練されたレトリック、短いですけれど読者を掴んで魅せるものが、ここにはあるような気がするのです。流れが速く、あらゆるものが瞬く間に過ぎ去っていく現代のなかで、こういうサイト(現代詩フォーラム)がこのような詩(歌)を内包し得る、ということに、あらためて吐息をつくものなのですが……。久しぶりにハッとしたのです。個人の詩史を思うとき、この作は何気ない、でも転機になっても良い歌ではないのかな、と。たしか富永太郎などはボードレールの「港」などを推していたように記憶しているのですが、作者にとってこの歌が試行錯誤・紆余曲折の末にたどり着いた、いえ、通りがかった一点(極点)であれば良いなどと、わたしは思うのです。作者が駆け足でこの作を通過していくのであれば、それも可です。でも、わたしはこの作をリリーさんの代表作のように思いたいです。今の時代、昭和初期の詩人や文人たちが熱狂したようには一篇の詩に感動する、ということは稀なことになっているのですが、そういう情熱を、この時代に持っても良いと思いません? 一読者として、このような作品に戦慄してみるのも(あるいは時代遅れなアティチュードなのかもしれませんが)良いことではないのかな、と思うのです。
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