ポイントのコメント
[アラガイs]
半導体レーザーの開発で知られる工学者西澤潤一氏の言説によれば創造とは「あたりまえのことを他人よりも先に気づく」ことだと言う。
創造性には意識して新しさを希求する認識が付き物だが、その意識下に於いて「私の意識は常に新しく、その接点で生じる様々な認識や感情も新しい」などとする根拠を考えてみれば、経験値などによる主観的な認識の感覚や、また物理現象的な視点を推論に伴う客観的な側面と対比させてみても、それらに生じた主観性は新しい、などと言明し定義付けられるものであろうか。
主観的な経験を伴う意識の定義付けの難解さには米国の哲学者トマス、ネーゲルの論文「コウモリであるとはどのようなことか」がある。訳のわからないおもしろい阜サなのでWikipediaに唐轤黷ス匿名引用文から載せてみる。 「 ある生物が意識を伴う心的諸状態をもつのは、その生物であることであるようなその何かが…しかもその生物にとってそのようにあることであるようなその何かが…存在している場合であり、またその場合だけである。」 この定義はこのままでは暗号めいている……… などなど、ここでの説明はまだ続けられるが、興味深いのは経験不可狽ネ物質への認識である。他人が経験する虫歯の痛みやコーヒーの苦味など、経験を通して認識に作用するそれらの意識とは異なる「中にガソリンを詰められたドラム缶とはどのようなことか」と、この滑稽な質問への意味合いを説いている箇所である。モノであるドラム缶それ自体はただのモノであり、はじめから我々の認識が意識として動かされるような類いの物質ではないのだ。これはあたりまえのことの様だが、ネーゲルがここで言いたい意識とは、我々はコウモリではない。しかし生物であるコウモリにも意識は働いている。我々はそれらを客観的でしか言い浮ケない。。空を飛んでいるという認識は我々もコウモリも同じなのだろうと推測はできるのだ。
つまり、あたりまえのことだと認知される意識の定義とは、我々が経験を指し示す直示的な言葉でしか言い浮キことはできないのだろう 。このような自己意識とは、まったくあたりまえのことを難しく阜サされて説明されている。
※
もう〜。直ぐに化ける。めんどくさい。しかし見た目はおもしろい。ましてや深く追及されると困る誤認を含ませているかも知れないので、このままにしときます(笑)筆者の方には申し訳ないですが、深く読まないでください 。
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