ポイントのコメント
[るるりら]
もし私が 人を殺すことが あたりまえの育ち方をしていたら
わたしは人を殺すと思います。
そして、そうでない生き方の人にであったとする。
人殺しどころか わたしの命を守るために 尽力しておられる方
にであったとする。それは、どんなに魂が救われるだろうかと
思います。
そんな出会いに恵まれても 私はやはり殺人をするしかない境遇
だとする。それでも、殺人ではない生き方をしておられる方の
出会いがあるとないとでは 私の人生の彩りは とても違うの
ではないでしょうか?
どんな状況であれ わたしが悪人であれ たすけようとする人に
出会うか出会わないかでは 私の人生の彩は とても違うはず。 わたしの場合は そのように思いました。
- 松岡真弓さんも いっておられますが、ここの役割は
戦争紛争被害者への援助だけではなく 災害義捐金のとりまとめ
も行っています。ここ以外のところからの送金は、
税金の控除などがありません。
扶助控除とはなにかを 考えるなら この組織のことを
考える必然があるとも 思いました。
---2013/02/19 08:07追記---
公開処刑をご覧になったことがあるのですね。それは
いかばかりのショックだろうかと 推察させていただいている
ところです。
アウシュビッツにも行きたくないというお気持ちは、
解るような気がいたします。なぜなら 私は 広島で育ち
子供の頃に 遠足や学校 そして実体験をお持ちのお話を聞きながら育ちました。
そのたびに おっしゃるような反応になったことがあるし
わたしの友達が吐いている姿も見てきました。
わたしが先に書いたコメントのような気持ちになったのには
わたしの育ち以外にも理由があります。
今回のこの詩を受けて、戦中に 日本の赤十字ではたらいておられた方のコメントを視聴したからです。日本の当時の赤十字ですから 自国の負傷者の看護です。そういう意味で この詩とは違います。しかし、わたしは コメントに残したような感想を持ったのです。
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001100116_00000
アウシュビッツには行きたくないというお気持ちは、
よくわかります。しかし、アウシュビッツの近くに住んでおられる方々は
どんなに嫌悪感をもっていても アウシュビッツの近くに住んでいらっしゃるのだと 思います。そして 広島では 人が殺される話を仮想ではなく親族の話として聴くだけの土壌があります。
ヒロシマの場合は 情報がアメリカによって制限を受けていましたので 原爆投下直後は ろくな医療もほどこされませんでした。
それでも、ヒロシマをおそれず尽力するために こられた方であるジュノー医師などは もはや伝説です。赤十字も彼を広告塔にしています。人を殺すことが あたりまえの育ち方をしていた敵国の日本人が深手を負ったことを知り 尽力をされました。ジュノー医師もこの詩とは ちがい 日本が敗戦後の話ではあります。しかし損得をかんがえずに行動する方が ひとりでもいらっしゃると 多くの人の心が浄化されるという実例の ひとつです。
貴重な思考の時間をいただき 感謝しています。さまざまな方が熱く語っておられるし、素晴らしい 問題定義をありがとうございました。私信にしなくて すみません。私信という形は わたしには 辛かったので こちらに追記しましたが、議論のつもりで書いていないことに免じて 許してやってくださいませ
---2013/02/19 10:56追記---
戻る
編集