普遍性について/佐々宝砂
 
夫の方が丈夫な足に見える。

私は、夫の足を見るたびに思う。この人の足は、とても、足らしい。いかにも足だ。足らしい足だ。人が丈夫そうな肉体派の足を想像するとき頭に思い浮かべるような、彫刻にしたくなるような足だ、と。

高村光太郎が、岩手の人の顔について述べた詩があった。私の夫の足は、なんつーか岩手の人の足のようだ。高村光太郎は岩手の人の足について書かなかったけれど、書いていたとしたら、私の夫の足のようなものだったに違いないと思う。彫刻家でもあった高村光太郎が足を彫刻したとしたら、私の足より私の夫の足を彫刻したがっただろうと思う。

私の足と夫の足、どちらも健康な足で機能的な問題はなく、水虫もないし外反母趾もない。だが、ごく普通の足ではない。どっちも同程度に個性的で極端な足だ(性格容貌性的嗜好が個性的かどうかはさておいて)。この極端な足ふたつを並べたとき、私のより夫の足の方が普遍的な足に見えるのは、いったいなぜなのだろうか。

普遍性という単語を聞くと、どうしても、私の夫の特殊な足を思い出してしまうのだ。
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