サクマ式ドロップスの思い出/快晴
なってしまったから作ったという「結果」であり、幼少時代の私にとっては「ドロップジュース」が「目的」であり、ドロップ自体はその目標の為のただの「過程」であった、という時点で180度違う物であったのだ。こんなことを書いて私は現在の日本批判をしたいわけではない。ただ私はその行為と思い出を通して、「物事の本当の価値」というものを少し体感することが出来、きっとそれが私の人格形成においても少なくない影響を与えたのだろう、ということを改めて感じたのである。
先にも書いたが、私が最後に「火垂るの墓」を見たのは、最後に見たのがいつだったのかすら思い出せない位前のことで、記憶が薄れていたり間違った解釈をしている部分もあるかもしれません。その辺りは私信などで訂正して頂けると有り難いです。きっとこれを書く前にもう一度しっかりと「火垂るの墓」を見るべきところなのでしょうが、衝動的にこの思いを綴りたくなってしまったのです。とても稚拙な文章になってしまいましたが、最後まで読んで下さった方には心から感謝します。なお、この文章を書くきっかけを与えて下さった「よはんびん」さんにも心から感謝します。
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