ヒューム「ベルグソンの芸術論」(1)/藤原 実
 
、言語の論理によらないで見るわけですね。つまり、文法をはずしてものを見る。目にうつるままというのは、うつったときに、それを論理構造として、あるいは主語述語という関係で見ないということなんだろうと思います。
        (『ロマン主義から象徴主義へ[シンポジウム]英米文学4』:学生社)



ロラン・バルトはフローベル(1821-1880)以降、それまでの古典主義的な言語が変質し、現代の詩における〈語〉とは、「無限の自由によって輝き、不確かで可能的な多数の関連に向かって光を放射する」ものになったとして次のように述べています。

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「古典主義的な言語においては、関連こそが
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