「O・KI・NA・WA」/do_pi_can
 
の事を耳打ちしてくれる


『摩文仁の丘』

1945年3月26日 慶良間(ケラマ)諸島で始まった上陸作戦は,
6月23日摩文仁丘で牛島軍司令官と長参謀長が自決するまで
沖縄本島を激しい戦闘下に置き,
一般沖縄県民94,000人、日本軍94,000人、米軍12,000人の犠牲を出した
本当は,日本軍が首里城で降参していれば,
このうちの,特に,沖縄の住民の犠牲を
もっと,少なくできたはずだ
日本軍は,愚かしくも,
本土防衛の事だけを考え,
すでに,本土上空の制空権は米軍側にあったにも係わらず,
沖縄の住民を盾にして,司令部をさらに南に移す。
南部には,戦禍を避けて,
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