「現代詩の位置付け」/鷲田 岳
 


流動化しないものが相対的価値を低位化することは生活用語であり、一種の普遍でもある。現代詩が原理的な領域に意固地になっているならば、否定することで進展は出来ないし、今後も他要素のリンケージを一切、含有しないということになろう。但し、絵画や美術館、博物館、映画等々の芸術作品が行政支援の基、又、大企業、富裕層支援の基、発展していった経緯を見ると、そこから反転する、又、その技を持たない、現代詩は象牙の中に暮らし続けることを夢見、絶対的な主張を見据えているものなのであろう。これはプロ詩人が生活出来ない一義的根拠とも言える。そして、上記を前提とすれば、自由を詩の中に見入ることは自己想像の中で可能であっても、現実には決して証明できるものではないのであろう。

現状、詩とは趣味の世界で、先人の定めた詩論の形式の上で書かれるものなのであろうものかと考える。それは、固定化しており、詩の描く夢図は先人の轍の中にあり、恰も、理想主義者の単一的視点はしばらく継続するものと推測される。

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