子どもの「純真さ」について/アシタバ
ことを思わずにはいられません。私は言葉によって坂が「のびていく」さまが、言葉そのものが「のびていく」過程において跡付けられていることに、驚き、かつ畏れたのでした。
私は必ずしもノスタルジーという心性そのものを否定するつもりはありませんでした。ただあまりにも容易に「純真さ(無垢)」への回帰をまるで<現実に>可能なものとしてでもあるように書き連ねてしまうことに対する、私にわだかまった不満ないしは疑念について書いてきたつもりです。一方に無垢な言葉としての詩があり、他方に不純な言葉としての小説なり、その他の記述がある、とするのは、それこそ反動的なデマゴーグに過ぎないでしょう。もし、小説が不純であるとするなら(フィクションという呼称に表されているように)、詩もまた不純なものとして向き合うべきなのです。そして詩の真価は純粋か不純かというようなところで問われるべきでなく、詩に固有の言葉の運動を解放することなのではないかという、あたりまえの提言をさせていただくに留めたいと思います。
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