子どもの「純真さ」について/アシタバ
 
めます。すなわち、「社会が悪い」同じことですが「悪いのは社会だ(私は悪くない)」という転嫁です。このとき不思議なのですが、「純真でない」はずの大人として語っているものと、「子どもの純真さ」とが相同的、類比的に結ばれていることに気付くわけです。そしてそれを媒介するのは、ある種の回顧、漠然とした郷愁といったものでもあるわけです。かつて「純真な子ども」であったものとして彼は語っているわけです。

 しかし、一方で私たちは、子どもが「純真」でないさまを見たり聞いたりして知っています。彼らは日常的に嘘をつくし、それを隠したりする「卑劣さ」も持ち合わせています。子どもは「純真」なのではなくて、ただ可憐なの
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