野田秀樹『贋作 罪と罰』を観る/田代深子
 
い。生臭く非合理的で見苦しいほどの自己犠牲は描かれることがない。これは野田秀樹の作風としては一貫している。しかし〈罪−罰〉の即時的・論理的な因果関係、その二元論を無に帰すべき不条理である〈罪なき自己犠牲〉が存在しないことにより、〈革命−犠牲〉という応用もまた安易に物語へ導入される。『贋作』においてラズミーヒンとソーニャを兼ねる“坂本龍馬”は、「血の代わりに金を流す」ため奔走したが、最終的には主人公の罪に対する罰として、そして革命のために血を流す犠牲として、描かれるしかなくなるのである。
 野田演劇の魅力として、シンプルで美しく静動の対比が生かされた舞台演出、韻律や比喩を生かした詩的言語による台詞まわしがある。これらが骨のある構造に支えられている。『贋作・罪と罰』においては、この構造の堅牢さが原作の煩雑さを整理し観やすくした一方で、煩雑さの中にあった豊かで多様な想念が削りとられてしまったとも言える。野田秀樹自身の演劇家としての成熟が、そこに集約されるのだとしたらありがちなことであろう。

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