清らかさと性について/渡邉建志
う形のセックス(愛はないけれど情はある)を僕は、なぜかまったく否定する気になれない。あれだけ性を否定していた僕が。あるいは、逆に、愛が清らかであるべきだからこそ、セックスは、情の通じ合いであるべきなのかもしれなかった。ということは僕は彼女を一方的に愛していた、彼女ももしかしたら僕を愛していた、だけど、情は通じ合っていただろうか。だけど、情は通じ合っていただろうか。だけど、情は、通じ、合って、いただろうか?清らかにして、ベアトリーチェにして、逆に僕は彼女を遠ざけていなかっただろうか。情が通じるとは信じていなかったのではないだろうか。僕は自分を卑下し、彼女を崇拝し、そういう違うレベルに置いていた関係で
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