去りにし日々、今ひとたびの幻/佐々宝砂
 
ガラスを見ている
人類がまだたくさんいたころの
ピッグ・ボムが地表を焼くまえの
去りにし日々の
今ひとたびの幻を

私は父さんを捨てようと思う
持てるだけの食料をリュックに詰め込み
着られるだけの服を着込んで
ちょっとだけノスタルジックな気分になって
ふりかえる
でも父さんはこっちを見ない
父さんは当分のあいだ死なないだろう
私の不在にも気づかないだろう

シェルターから這い上がる
歌がきこえる
今日は切なく静かにきこえてくる
歌詞はわからない
でも意味はわかる
今は私にもわかる
あの切実な欲望の意味が

だから私は出かけるのだ


逢ったことのない
見たことのない
あなた

あなたが
去りにし日々の今ひとたびの幻
ではないと
信じていいですか

逢ったことのない
見たことのない
あなた
愛しいあなた






タイトルを昔のSFから借用しています。
『去りにし日々、今ひとたびの幻』
ボブ・ショウの古いSF長編。
サンリオSF文庫刊、絶版。


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