『越境の衝動』 第十二章/他者に残る熱/板谷みきょう
澄乃は丘で歌うのをやめていた。
声を出すと胸の奥が冷えるからだ。
代わりに風を待った。
拒まなかった、と言うべきか。
夕方、布を干していると
指先がふいに温んだ。
風だけがぬるい。
それは澄乃の背を撫で、
思い出されたに近かった。
胸の奥で名前が浮かび、
声に出す前に消える。
呼ばれなかった名が風に混じる。
澄乃はそれを悲しいとは思わなかった。
ただ、ここに誰かの熱が通ったと確信した。
「今日の風、変だったな」と
村の者が言ったとき、澄乃は黙って頷いた。
布に残った温もりをそっと畳む。
洗い落とせないものが確かにある。
風はもう声を必要とせず、
他者の中に留まる。
吉はまだここにいるが、
戻れる場所はどこにもなかった。
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