『越境の衝動』 第十章/名を呼ばれない瞬間/板谷みきょう
 
村の境に立ったとき、
呼び止められた気がした。

「吉ちゃん」という、
かつて何度も聞いた声で。

けれど誰も呼ばなかった。

風が鳴り、戸が軋んだだけだ。

名は音よりも先に失われる。

呼ばれないという事実が、
刃のように遅れて突き刺さる。

吉は立ち止まらなかった。

名を呼ばれない者が振り返る理由はない。

背中に感じるのは拒絶ではなく忘却なのだ。

それがいちばん重い。

「鬼だぞ」と
誰かが言った気がしたが、
それもただの札だ。

吉は村の外へ踏み出した。

その瞬間、身体の輪郭が薄くなる。
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