『越境の衝動』 第八章/速度だけが先に来る/板谷みきょう
 
ある朝、吉は身体が
昨日より軽いことに気づいた。

一歩踏み出すと景色がずれ、
二歩目で木々が後ろへ流れた。

走ろうとしたわけではない、
身体が先に行ってしまったのだ。

息が追いつかない。

心臓が遅れて鳴る。

けれど足は止まらない。

斜面を下るとき、風が背を押した。

俺は追われているのか。

違う、追っているものがないのだ。

速さには目的がなかった。

逃げ場も行き先もなく、
ただ「ここではない」へ身体が進む。

立ち止まろうとすれば
胸の奥が軋み、止まることが痛みになる。

その夜、吉は山の尾根を一息で越えた。

月が追いつけず、影が遅れてついてきた。

速さは戻れない祝福だった。
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